座談会@INAX:GINZA

15日は藤村龍至さん、山本理顕さん、東浩紀さんの座談会に参加。メンバーの豪華さにびびりながらの参加でしたが、非常に楽しい濃密な時間を過ごすことが出来ました。改めて感謝したいと思います。ありがとうございました。


さて、ここから本題。
まずは理顕さんの「地域社会圏」の話が始まる。ぼくたちが生きている都市は、1920年代にヨーロッパで生まれた「1住宅=1家族」というシステムが前提として存在している。住宅の大量供給が必要不可欠だった戦後において、吉武泰水鈴木成文が提唱した51C型はこの「1住宅=1家族」を採用した上で住宅を大量供給しようというものだった。
今の基本的な住宅形式であるnDKは51C型が前身なので、現在までシステムの更新がないまま住宅が設計されている。しかし、高齢化や少子化によって「1住宅=1家族」という前提が崩れてくる。こうした現状に対して、理顕さんは400人を一つの単位とした「地域社会圏」を提唱する。家族と国家の中間項を定義することで、直に接続されていた家族と国家の間にコモン的な何か(=地域社会圏)を作ることは出来ないか。大まかではあるが、理顕さんの主張としてはこうだ。

一方で、東さんはよりリベラルな考え方を提示する。ある地域共同体に所属していたとしても、ケータイで別の地域共同体とヴァーチャルに繋がることが出来る。地域共同体が必要なのは子供や老人であって、ネットリテラシーの高い成人にはあまり必要でなくなってきている、と。だから極端な話、物理的にものすごく内側に閉じている人がいたとしても、それはヴァーチャルによってある程度解消されてしまう。

座談会での理顕さんと東さんの議論は、『リアルのゆくえ』での大塚英志と東さんの議論を想起させる。二人の「公共性」についてのスタンスの違いが大きく表れているように思えて、いわゆる大文字の「公共性」を信じる大塚的立場と、よりリベラルな新しい形の「公共性」を模索する東的立場、どちらをスタンスとして取るかの違いになっているのでは。あまり世代的な問題へと回収したくは無いが、87年生まれのぼくにとって東的立場はある程度理解出来る。ローティーンの頃からケータイを使い始めていた世代にとっては、個人と国家が接続される前に、個人と世界がまず接続されてしまう(ように思える)からだ。


話が建築から逸れてしまったが、建築的な議論として印象に残っていたのが「コンビニ」の話。「広場」と「コンビニ」を対比すると分かりやすい。例えば、「広場」は作り手が「この場所に人が集まって欲しい」という明確な意図によって作られていくが、「コンビニ」は資本主義的なダイナミズムによって「人が集まる場所」へ自動的に作られていく。あまりに情報化された社会では、「広場」的な場所は徐々にその必要性が薄れていって、「コンビニ」的な場所、つまり人が必要なとき(コンビニエンス)に使える場所がより重要となっていく。

しかし、これではあまりに身も蓋も無いというか、こうした状況に対して建築家側はどうすればいいのか。そのヒントが、藤村さんの言う「学校」にあるかもしれない。

不動な場としての「学校」と変動な場としての「コンビニ」。もしくは、地形や伝統のようにどうしようもなくマゾヒスティックな空間と利用者の自由性を極端に高めた空間。


不動な場をどう設計するか。
レポを書いているうちに、自分の中で整理されてきた。あとはアウトプットの高速化が今後の課題かと。


追記
「山本氏編『建築のちから3』(INAX出版)に収録予定です。」
http://d.hatena.ne.jp/hazuma/20091018