場所なき場所に言葉は生まれるか

久々の更新。

今日は千葉大建築レクチュアシリーズの第三回目だった。五十嵐太郎さん自らが80年代-00年代までの建築論壇における状況を時系列順に解説してくれた。内容について言及したいこともあるが、ここでは割愛させて頂く。

ここで言及したいのは、レクチュアのあとに「千葉大建築には言葉がない」問題について学生同士で議論したことである。今日のようなレクチュアを聞けば聞くほど、いかに千葉大学建築学科がいわゆる建築論壇的な場所から遠く離れているかを強く痛感する。東大や東工大、早稲田、横国と違い、千葉大からはクリティカルな動きが出てきそうにない。過去においてもそうだった(少なくとも、自分が入学した2005年以後、何か動きがあったとは到底実感出来ない)。

むろん、そもそもクリティカルな動きや運動を起こすことが必要なのか、という意見もあるかもしれない。与えられた建築学科のカリキュラムをこなし、粛々と課題をこなす。それで十分ではないかと。

しかし、それだけでは寂しい(単純な実感として)。そして、同時にある種の危機感をも感じてしまう。ネットを介して多くの様々な学生が主体的に何かを発信している場面を実際に見ているからかもしれない。

建築学科としての伝統も無ければ、スターアーキテクトもいない。それでも、そのような場所なき場所で、同学の同じ世代同士で考え、感じたことを言葉にしたい。そんな渇望が少なからず今のぼくたちにはある。

「何かが変わってゆくような そんな気がした あと少しで」

自分はあと1年で大学を去ってしまう。ほんの少しでもいいから、やるべきことをして大学を去りたい。久しぶりに強くそんなことを思った。6月中に何かしらのアクションをとりたい。